top of page
  • 執筆者の写真Guillaume Hansali, CEO, guitarist, and wine lover

日本のビジネスはなぜガラパゴス化するのか?

ガラパゴスという冠を持った携帯を筆頭に、近年、 海外において 日本の製品やサービスの人気がいまひとつなのはなぜでしょうか?日本市場では受け入れられながら、なぜ世界に受け入れられないのでしょうか?そこには世界的に最もハイコンテクストな文化と言われる日本文化が影響しています。歴史的な背景も含め、日本という国の文化を改めて見直すことが今後の日本において必要なのかもしれません。

最もハイコンテクストな国日本

文化人類学を学んだ方は、ハイコンテクストとローコンテクストの文化というワードを聞いた事があるかと思います。このワードが日本ビジネスのガラパゴス化を説明する上で重要なキーワードになると私は思っています。

ハイコンテクストとローコンテクスト文化は、アメリカの文化人類学者エドワード・ホールが1976年に出版したビヨンド・カルチャーの中で語っているものです。コンテクストは文脈や背景などと訳されますが、コミュニケーションの基盤である「共通の知識・体験・価値観・嗜好性」などのことで物理的、社会的、心理的、時間的な全ての環境を表します。ハイコンテクストはこれらコンテクストが高い(多い)状態の文化で、ローコンテクストはコンテクストが低い(少ない)文化になります。ハイコンテクスト文化圏としては、フランスなどのラテン系やアジアなどが当たり、アメリカやドイツなどは、ローコンテクスト文化圏に属します。

エドワード・ホール氏は、日本が「典型的なハイコンテクストの国」であると話しています。日本は島国であるため歴史的に民族が交わらず、 長い時間をかけて共通の価値観が形成されたため、コミュニケーションにおいて前後背景を伝える必要がなくなっていったのです。「察する」「空気を読む」は共通の価値観を持っているからこそ成り立つ日本独特の文化なのです。


ハイコンテクストが生み出す付加価値

ハイコンテクストとローコンテクストを最も身近に感じることが出来るのは、語学を学ぶ時かもしれません。英語を学ぶ時に、主語や数量、結論を明確に伝えなければならないと注意されることがありますが、日本の「察する」文化の中で、あえてあいまいに話す事が身に付いてしまっている日本人には難しい事なのかもしれません。このように言語によってハイコンテクストとローコンテクスト文化の違いを感じることはできますが、言語だけでなく生活や、考え方、嗜好などにも多くの影響を与えています。実際にフランスなどは、言語やコミュニケーションはローコンテクストでありながら文化的にはハイコンテクストと言われています。

日本の文化として海外で紹介される代表的な例であるわび・さび(侘・寂)は、「不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」「閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」であり、今でも日本人の中に深く息づいています。俳句や短歌などは、その限られた文字数で、いかに背景や心情や時間を想像させられるかを追求するもので、前後の文脈(コンテクスト)を出来るだけ多く深く感じさせることを追求した遊びです。このコンテクストの追求こそが、日本人の長所であると思うのです。

私はゲーム業界にいますが、日本のゲームは昔から世界中のファンに受け入れられその歴史を築いてきましたが、最近では海外のゲームに押されてその存在が薄くなりつつあります。過去の日本のゲームが優れていた理由はなんでしょうか?理由はたくさんありますが、俳句や短歌と同じく限られた文字(コード)で、より多くの背景や心情を想像させる事が得意だったことが大きな要素であるのです。日本のものづくりも同じで、職人達(ほとんどは中小企業)はある程度制限のある中で工夫して多くの付加価値を生み出しています。それが日本人の得意としているところです。


同期の欲求を煽るマーケティング戦略

しかし、その長所は度が過ぎると不必要で、理解されないものになってしまいます。贈り物をする時に「つまらないものですが・・・」と言うのや、京都のお宅にお邪魔したときの「お茶漬けでもどうですか?」という言葉が、実は「そろそろ帰ってください」という意味だったりするのは、ハイコンテクストな人々が追求したいき(粋?)過ぎた文化です。ローコンテクストなアメリカ人にこれをやると、言葉通りにお茶漬けを待つし、「つまらないものなのに、なんでくれるの?」と素直に不思議がります。寿司屋でお会計をする時に、「おあいそ」というのは本来お客さんが使う言葉ではないというのはご存知かと思いますが、これも古い時代の京都の流行で、寿司職人が「お愛想がなくて申し訳ありません」などと断りを言いながら、お客に勘定書を示していた言葉であり、これも京都で流行し広まったものなのです。

現代の日本の製品やサービス、エンターテイメントは京都の流行のように、度が過ぎてはいないでしょうか?このように日本人がハイコンテクストを追求しすぎると、世界から理解されなくなり孤立してしまうのです。これがガラパゴス化する原因なのだと思います。

現在、我々の生活の中には、洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫、ビデオなど多機能を備えた電化製品で溢れていますが、こういったハイスペック製品の機能を全て使いこなしていると言う人はおそらくいないでしょう。本来の目的から少しかけ離れた機能が付随して複雑化してしまったこれら製品は、日本人でさえも分かり辛くなっているのです。ハイコンテクスト文化の中で生活するには、共通の知識を必要とするため、ローコンテクストの文化よりも、共通の知識を得るための欲求が強いと言われています。この日本人に強くみられる他人との同期の欲求を、日本企業は逆手に取ったマーケティング戦略を行っているのです。◯◯イオン、抗菌、エコナビゲーション、◯◯センサー、ニューロ、ファジィなどといったキャッチコピーを使用して同期の欲求を煽り、モデルチェンジによって追加された新機能の積み重ねが年輪となってより複雑化しているのです。このような複雑な製品を海外に持っていっても全く売れません。海外では本来の機能だけがシンプルに優れていれば売れるのです。


ローコンクスト文化への対応


では、どうしたらガラパゴスな方向に向かわず、グローバルな方向に向かえるのでしょうか。その答えとして面白い事例があります。以前日本テレビで放送されていた「電波少年」というテレビ番組の中で、「松本人志のアメリカ人を笑わしにいこう」という企画がありました。松本人志のお笑いのセンスは日本人であれば、誰もが認めるところです。常に前衛的でハイコンテクストな笑いを追求する人なので、時に笑いを生み出す背景に共通認識のない人からは、理解されない場合があります。その松本人志が「下手に出てまでお前等に俺の力を教える必要もない」などと言いつつ、本気でアメリカ人を笑わせようとする企画ですが、その中で松本人志がアメリカ人を笑わすために「全力をかけて65点の笑いを作らねばならない」という仮説を立てていました。65点というのは笑いの濃さ(複雑さ)であり、松本人志が当時持っていた笑いの濃さ100%のうち65%の濃さでありながら全力でやる事でアメリカ人を笑わすことが出来るという仮説をたてたのです。65点というと手を抜いているように聞こえてしまうかもしれませんが、アメリカの文化に合わせた単純な笑いを、全力を出し切って笑わせるには、相当な技量と経験が必要になってきます。仮説は他にもあり、ひとつは「アメリカ人にウケようとすると笑いが単純になる」、もうひとつは「アメリカは面白いモノさえやれば認めてくれる」ですが、その時のコメントで「馴染みがある 馴染みがないは あんまり関係ないですね~」「日本人って面白くても、馴染みがないとなかなかね」「そういう意味では面白いモノさえちゃんとやりゃ すぐに反応があるってのが いいとこですよね」と言っています。馴染みがあるから笑うというのは、共通の知識を必要とするハイコンテクストな日本人を表し、単純だが本当に面白いモノであれば笑うというのは、ローコンテクストなアメリカ人を表しているように思えます。

このようにターゲットとなる市場の文化に合わせたうえで、それをブレさせずに最大の表現をすることが必要になってくるのです。結果、松本人志が実際にアメリカ人を笑わす事が出来たかはわかりませんが、ローコンテクスト文化への対応を行う際のヒントとなるエピソードだと思います。ちなみに、この企画で最終的に松本人志が制作したお笑いは「SASUKE」という映像としてアメリカ人相手に公開されました。

映像といえば、白黒ハッキリわかりやすいハリウッド映画と、言葉に出来ない味わい深さのあるフランス映画の違いはローコンテクストとハイコンテクスト文化が生み出すエンターテイメントの違いが現れている面白い例かもしれまん。日本の映画がカンヌ映画祭やモントリオール映画祭(モントリオールはカナダにありながらフランス語圏)で賞賛を得ているのも、お互いハイコンテクストな日本とフランスの文化が関係しているのかもしれません。


多様性の中でハイコンテクスト文化を活かす

では、今後ガラパゴス化しないために日本人はハイコンテクストの文化を無くしていく必要があるのでしょうか?私の考えはNOです。エドワード・ホールがハイコンテクストとローコンテクストを提唱したのは1976年のことで、それから40年が経過しインターネットの普及により、世界中の人が共通の知識・体験・価値観・嗜好性を持てるようになってきています。いずれ世界は日本人の得意とするハイコンテクストな考え方に近づいてくるのです。ただビジネス上では、その時にどの程度のハイコンテクストの表現が必要なのか、松本人志の言う65点なのか75点なのかを判断することが必要になってきます。

日本人がハイコンテクストの表現の度合いを判断するのは難しいと思うかもしれませんが、会社の中にローコンテクストの文化圏の人材を取り込めることが出来たら、少しは簡単に判断ができるのではないでしょうか。会社の中に様々な文化圏の人々を取り入れ、ハイコンテクストな日本人の長所短所を理解したうえで、各文化の総意として製品やサービスが生み出せれば、ローコンテクストの文化だけでなくハイコンテクストの文化にも受け入れられるビジネスを展開できるのではないでしょうか。日本の会社は、昔からの日本的な経営スタイルを改めダイバーシティー(多様性)を取り入れることが今後の日本の企業に必要なことなのかもしれません。


閲覧数:177回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page